旧大島邸の歴史

 

旧大島邸と大島小太郎

 
旧大島邸は、唐津の近代化に尽力した、大島小太郎の旧宅である。
大島小太郎(1859年~1947年)は、唐津藩士、大島興義(おきよし)の長男として唐津城内に生まれ、唐津藩の英語学校耐恒寮(たいこうりょう)において、東京駅を設計した辰野金吾や、同じく著名な建築家である曽禰達蔵(そねつぞう)らとともに、後の蔵相、首相を務めた高橋是清の薫陶を受け、明治18年には佐賀銀行の前身となる唐津銀行を創立。その後も鉄道や道路の敷設、市街地の電化、唐津港の整備など、唐津の近代化に大きく貢献した。
本邸はかつて、ここから300mほど西側の地点に建っていたが、小学校校舎の建設に伴い解体され、現在の地に復原された。
主屋の完成は明治26年(1893)頃と考えられており、明治時代中期の大規模かつ極めて上質な住宅で、当時の和風住宅の、庭をともなう建物構成や、意匠の優秀さ、特徴をよく示している建物といえる。
 

大島小太郎 略歴

 
安政6年(1859) 唐津藩士大島興義の長男として唐津に生まれる。
明治3年(1870) 唐津藩の英語学校「耐恒寮」で高橋是清の薫陶を受ける。
明治5年(1872) 耐恒寮の閉鎖、是清の帰京後、上京。
明治16年(1883) 父興義の隠居により戸主となる。
明治18年(1885) 父興義らの発起で唐津銀行設立。小太郎が頭取に就任。
明治18年(1885) 一期(5年間)県会議員を務める。
明治29年(1896) 唐津興業鉄道株式会社を設立。
明治30年(1897) 唐津貯蓄銀行を設立。
明治32年(1899) 唐津興業鉄道の妙見~厳木間が開通。
明治42年(1909) 唐津電灯株式会社を設立。
明治45年(1912) 唐津銀行本店を現在の地に新築移転。
大正6年(1917) 唐津電気鉄鋼株式会社を設立。
昭和9年(1934) 唐津商工会議所設立時には顧問を務める。
昭和22年(1947) 12月17日、逝去(88歳)。
 

旧大島邸と宗徧流

 

三河吉田藩(現愛知県豊橋市)の藩主であった小笠原忠知は、千宗旦(千家3代)の推挙により、明暦元年(1655)、宗旦の四天王の1人であった山田宗徧を茶頭(さどう)として召し抱えた。
その後、文化十四年(1817)に奥州棚倉から小笠原長昌が移封されるのに従い、5世宗俊も唐津に移り住んだ。これに伴い、唐津の地に宗徧流が根付くことになる。
明治維新を迎え、茶道が一時衰退の兆しをみせた際、旧小笠原藩士で5世宗俊に学んだ茶人でもあった大島興義(おきよし)や茶坊主の中村宗珉(そうみん)らは、7世宗寿尼(そうじゅに/6世宗学の妻女)を助け、宗徧流の復興に努めるが、明治十三年(1880)、宗寿尼は2人に後事を託し、上京することとなる。
また、宗寿尼は、興義の茶室に「敬日庵(けいじつあん)」の名を送っている。

 

高橋是清と耐恒寮

 

唐津藩最後の藩主である小笠原長国(ながくに)は、明治三年(1870)他藩にさきがけ、従来の漢学、医学部に加え英語学校である耐恒寮(たいこうりょう)を創設しました。この耐恒寮の英語教師として招かれたのが、のちの首相で二・二六事件の凶弾に倒れた高橋是清(これきよ)です。高橋は当時若干18歳にもかかわらず、月給百円という破格の待遇でした。廃藩置県で藩知事となった長国の月給が30円であったことを考えると、藩の期待の大きさが感じられます。
耐恒寮は、当初大名小路にありましたが、当時藩には攘夷の気質も多く残っており、あるとき放火により焼失してしまいます。その後、藩知事の江戸への引っ越しが決まったこともあり、かつての藩主館(現在の早稲田佐賀校)に移ることになりました。
高橋が耐恒寮で教鞭を取ったのは、わずか1年3ヶ月の短い間でしたが、この時に高橋の薫陶を受けた生徒には、東京駅の設計で知られる辰野金吾(たつのきんご)や同じく建築で三菱の顧問であった曽禰達蔵(そねたつぞう)、天野為之(あまのためゆき/経済学者/早大学長)や、掛下重次郎(かけしたじゅうじろう/法律家・大審院判事)など明治の世で活躍した人々が数多くいます。

 

竹内明太郎

 

現在、旧大島邸が建ってるこの場所には、明治19年(1886)から大正11年(1922)までの36年間、竹内明太郎(たけのうちめいたろう)が住居を構えていました。
竹内は、土佐藩の支藩であった宿毛領(現高知県宿毛市)の領主伊賀家の目付役であった竹内綱(こう)の長男として生まれる。弟に後の首相吉田茂がいます。
明治18年(1885)、綱は高取伊好(これよし)とともに芳ノ谷炭鉱の経営権を取得し、翌年その経営を任された明太郎が唐津に赴任し、最新鋭の鉱山建設に着手することになります。
明治42(1909)には、唐津市妙見に「芳ノ谷炭鉱株式会社唐津鉄工所(現唐津プレシジョン)」が新設され、わが国を代表する精密機械工場のひとつとして名声を確立していきます。
明太郎は他にも、早稲田大学理工学部や私立高知工業学校(現高知県立工業高校)設立に尽力します。
唐津鉄工所の設立から10年後、明太郎は所有していた遊泉寺銅山(石川県小松市郊外)の付施設として「小松鉄工所(現小松製作所)」を設立します。さらに、明太郎は田健次郎(でんけじろう/九州炭鉱汽船社長)や青山禄郎(ろくろう)とともに、国産第1号自動車であるDAT号(のちのダットサン、日産自動車の前身のひとつ)の開発を支援します。このDATは田、青山、竹内のイニシャルを取ったものです。

 

辰野金吾

 

辰野金吾(たつのきんご)は、安政元年(1854)に唐津藩の下級藩士、姫野倉右衛門の次男として裏坊主町に生まれました。その後、叔父にあたる辰野宗安の養子になり辰野姓となります。
藩校志道館、英学寮耐恒寮で学び、耐恒寮の恩師高橋是清(これきよ)を追って上京し、明治6年(1873)4月、工学寮(のちの工学部大学校、東京大学工学部の前身)の第1回入学試験を受けます。このとき、同じく耐恒寮で学んだ2歳上の曽禰達蔵(そねたつぞう)や麻生政包(あそうまさかね/鉱山技師)は合格しますが、辰野は点数が足らず4ヶ月後に行われた再試験で合格します。
入ったときこそ、第1期生32人中最下位の成績でしたが、6年後に造家学科(のちの建築学科)を卒業する時は主席でした。
卒業後、工学部大学校の教授となるが翌年辞職、その後再び乞われて帝国大学工科大学教授
となる。
16年間帝国大学教授の要職を務めた後、辞職し我が国初のフリーの建築家という職業を確立し、200を超える建造物を手掛けました。
初期の代表作とされるのが日本銀行本館で、晩年の代表作の中で最も有名なのは、東京駅です。

 

曽禰達蔵

 

曽禰達蔵(そねたつぞう)は、嘉永五年(1852)に江戸城下、大名小路の唐津藩邸に生まれました。父まさはるは、祐筆及び留守居役を務め、小笠原家の世継ぎ長生(ながなり)を里子として預かるような信の厚い家柄でした。
曽禰は10歳のころ、当時藩主小笠原長国(ながくに)の世子(後継者)であり、幕府の老中格であった長行(ながみち)に気に入られ小姓になります。
長行は、最後の将軍徳川慶喜が新政府屈した後も上野、会津若松、函館において転戦を続けましたが、榎本武揚率いる幕府艦隊と合流し函館に渡る際、曽禰の才能を惜しみ国元に帰したといわれています。
唐津に戻った曽禰は、耐恒寮の第1期生として入学します。このとき、講師であった高橋是清が18歳、曽禰20歳、辰野金吾18歳、大島小太郎はわずか13歳でした。高橋が東京に戻る際同行し、高橋家に住み込みながら勉強を続け、工学寮(後の工部大学校、東京大学工学部の前身)の第1期生として入学し、辰野らともに英国から招かれた建築学者ジョサイア・コンドルの教えを受けました。
その後曽禰は、工部大学校で教鞭を取りつつ、海軍で技師として建築にあたった後、三菱に建築技師として迎えられ、丸の内にロンドンのロンバート・ストリートがモデルとされる、日本初のオフィス街の完成に尽力しました。

 
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